中国語の学習にはいろんなやり方があります。最も一般的な学校で習うことについて、メリットやデメリット、教育スタイルの比較について紹介します。
『教えてもらうか独学するか』:拼音の項で述べましたが、私は少なくとも初心者のうちは独学は控え、有識者に正確に教えてもらうべきだと考えています。特に発音が難しい中国語では、間違った発音を覚えてしまうと二度と正しい発音ができなくなるというリスクが高いです。実際にそれで中国語を断念した知人が数人いるだけに、私としてはここは確信を持ってコメントしておきます。また、独学では自分のペースで学習できるのに対して、教えてもらう場合は学校や先生の都合に合わせる必要があるので、時間や内容調整の融通が効き難いという難点があります。そのため、時間の確保が難しい兼業学習者には独学が良さそうに思えますが、一方で仕事や他の用事に流されてしまいがちなので、ある程度の外部からの強制力が働いている方が継続には有効だという考え方もあります。事実、私は中国語学習のモチベーションが同僚たちに比べて高い方ではありますが、学校に行っていない時には気が付くと仕事ばかりになって学習を疎かにしてしまっていることが良くあります。また、教えてもらうにはもちろん費用がかかりますが、お金を払うことで性根が入って真剣に取り組めるということもあります。これらの考えから、私は独学よりも教えてもらう方が良いと考えます。
『プライベートかグループか』:一般に中国語学校ではプライベートレッスンが多いのではないかと思います。一方、大学や団体が主催する交流会などではグループレッスンが主体です。プライベートレッスンの魅力はカスタマイズが可能であること、個人の能力や希望に沿った教え方をしてくれることです。詰まっても、周囲を気にすることなく自分が理解できるまでとことん聞くことができます。グループレッスンは個人の都合で進められないかわりに、学習の仲間がたくさんいて切磋琢磨できるのが大きな魅力です。他の人の発言や質問を聞いて自分では思い付かなかった気付きを得られたり、相互に教え合ったりできます。競争心が芽生えて、それがモチベーションに繋がります。そして何より、仲間意識が芽生えて学習に取り組むのが楽しくなります。どちらが良いかと一概には言えないですし人によって好みはあると思いますが、あえて言うなら学習初期はプライベートでじっくりと、中期以降は引き続きプライベートか、楽しい人間関係が見込めるならグループを視野に入れるのが良いかと思います。私はこれまでほとんどプラベートで教えてもらってきましたが、大学で学んでいる知人の話を聞くととても楽しそうなので、いつかは大学で学んでみたいと思います。
『通うか来てもらうか』:学校に通うか家庭教師に来てもらうかという比較です。学校に行くとホワイトボードや教材が完備しているのに対して、一般の家にはそれらがありません。私はホワイトボードに先生も自分も書きながら授業をしてもらうのが好きなので、通う方が好きです。家庭教師に来てもらうのは移動時間のロスがないので有難いのですが、どうしても授業の質は落ちると思います。生活環境の中では気持ちがダラけてしまうということもあります。ある時期に先生の派遣をお願いしたことがあるのですが、先生(女性)がOK だというので待っていると、当日に「彼氏にダメと言われた」とドタキャンされたということもありました。
『Face to Faceかネットか』:ネットのオンラインスクールで勉強したことはないのですが、以前学校で教えてもらっていた先生に中国と日本を繋いでスカイプで授業をしてもらったことはあるので、その経験を踏まえて比較します。ネットだと通う必要がないので時間的に有利です。ただ、「痒いところに手が届く」授業は難しかったです。例えば書いて説明してもらうような場合は記述欄に文章をインプットしてもらうのですが、その文章を指で示して説明するようなことはできないので意思の疎通が難しかったです。また、絵を描きながら説明することが意外と多いのですが、それもやり難かったです。他にも宿題の答え合せや細かい部分の発音練習など、うまくできないことが多かったです。たぶん専門のオンラインスクールではそのような課題は対策しているのだろうと思います。中国生活を終えて帰国してから学習を続ける際には検討してみようと思っています。
昔の中国人の「失敗は他人のせい」というロジック、というか屁理屈には眼を見張るものがありました。「成功は自分のおかげ」までは言わないにしても、面子のためなのか失敗を認めたら良からぬ処罰がなされてしまうからなのか、とにかく自分の失敗は認めない。これにはとても困惑させられました。
そもそも彼らは非常に安易にものごとを引き受けます。そんな能力はないと思われるのに大して考えもせず「没问题」「可以的」と引き受けます。できるという根拠を聞いてみると「○○ができると言ったから」みたいな部分に行き着きます。不安に思いながらも仕方がないので任せるのですが、その後経過を確認するたびに特に何かを確認する様子もなく「没问题」「○○さんは心配し過ぎです」と即答してくれます。そして夜は「谢谢合作」とお決まりの乾杯です。不安を覚えながらも任せて、しばらくしてまた確認すると、ある時いきなり「できません」に変わってしまっている。「没问题」が「没办法」に変わる瞬間です。ここから「自分のせいではない」ロジックが展開されます。
まずは「こちらのせいではない」から始まります。計画を合意した際に言ったことなどすっかり忘れて(あるいは完全に無視して)、「そんな合意はしていない」と言い出します。サイン入り議事録等を示すとサイナーが当事者ではない場合は「そんな合意は私は知らない」とか「その人はもう担当ではないから無効だ」です。あるいは「○月○日までに完了するなんてそもそもあり得ない。だから、そんな要求をしたそちらが悪い」とか「難しいと分かっているのになぜ支援してくれないのか?支援契約を違反をしたそちらが悪い」です。要するに「こちらが悪いとでも言うのか?」といった論調で一方的なロジックが延々と展開されます。
いよいよ自分たちの非を認めざるを得ない状況になると今度は「私のせいではない」です。「私はやるように指示してあの人ができると言ったのだから、できなかったのはあの人のせい」です。これはもう必死、絶対に認めません。中国には人がたくさんいて代わりなどいくらでもいるので、彼らにとっては失敗≒失職なのです。なりふり構わず、子供のような言い訳をしてまでも、決して認めることはありません。あまりの見苦しさに腹がたつのを通り越して呆れてしまい、こちらも彼をクビにすることが目的ではないので議論する気が失せてしまいます。そうして彼は遂に逃げ切ることになります。
根拠のない安請け負い、没问题いつの間にやら没办法(川柳風に)、失敗は他人のせい、これらの特性をしっかり認識して、想定される上記のような言い訳を全て加味した上で仕事に当たれるのが、昔の中国ビジネスの達人でした。この能力も時代と共に不要になってきて、私としては残念な限りです。
私の中国での空手の教え子たちが日本の大学に留学していますが、みんな日本の大学生と同じように勉強をし、空き時間があればコンビニなどでバイトなどをして楽しく過ごしています。しかし昔(80年代後半)の中国人留学生はずいぶん様子が違っていました。
私は大学生の時に寮に入っていたのですが、その寮に中国人留学生も住んでいました。彼らは国費留学生ということで中国国内の審査を通過した優秀な方々でした。興味があったので話してみたいと思っていたのですがその機会がありませんでした。というのが、彼らはほとんど寮にいないのです。昼は大学、夜は延々とバイト、寮には明け方に帰って仮眠する程度だったからです。一般の大学生活をしている我々と合う時間がなかったのです。
勉強の方は国から派遣されているのでもちろん手を抜くことはできません。日本語がおぼつかないにも関わらずしっかりやって上位の成績を収められていたと聞きました。しかし彼らが最も力を入れていたのがバイトです。その内容もハードでお金になるものをやっていました。当時は日本がバブル期だったこともあり中国との経済格差が大きく、日本で1年間働けば中国で一生暮らせる金を稼げるということでした。なので彼らは必死でした。せっかく日本に来たのにのんびり寝ている場合ではありません。夜の工事現場の交通整理、夜間運送トラックの荷物の積み下ろし、深夜営業店での仕事など、一分一秒を惜しむかのように働いていました。たまに見かけることがありましたが、何というか、ものすごく活力に満ち溢れた感じでした。バブルで浮かれて遊んでいる我々日本人学生とは大違いでした。彼らと仮に時間が合って話をしても、その価値観の違いから全く会話にならなかったのではないかと思います。
当時は同じような経済的な理由で日本を目指した方はたくさんいらっしゃいます。国費留学とまではいかなくても苦しい生活の中からかき集めたお金で日本に留学したり、留学ではないですが、とにかく行けば何とかなるだろうと、日本語もできないのに渡航費だけを握りしめて日本に行ったような人もいます。彼らにとって日本は近くて繁栄している魅力的な国だったということです。留学後も日本に留まって仕事をした人もたくさんいます。彼らは逞しく日本社会で生き抜き、そして親日派知日派になって中国社会で活躍しています。とてもありがたいことだと思います。
近年中国人が留学先に日本を選ぶことは極めて少なくなりました。ある有名進学校の学生の留学先をみると、一番多いのが北米で半分以上、次が欧州、次がオーストリアやシンガポール、日本はわずか数%という少なさです。日本にいると中国人留学生は日本にたくさん来ていると思うかもしれませんが、全体からみると実は超マイナーなのです。政治的な問題もさることながら、やはり経済的にも学術的にも日本に魅力がなくなったことが一番の要因だと思います。残念なことですが、一方で旅行先としては日本は大人気なので、それをヒントに新しい日中関係が築けないものかと考えてみたりしています。
近年では会議の様子も随分変わってきて、目的を明確にして議論を結論に導き、議事録を作ってそれに基いて実行する、ということができるようになってきました。しかし昔の中国では会議をしても決まらない、決まったことがあっても実行しないというのが普通でした。
まず「決まらない」です。明確な目的が告げられないままメンバーが集められます。そして上位職者と思われる誰かが何かを延々と話します。次にそれに関連する人が自分の意見を延々と話します。その多くは問題を指摘されたことに対する言い訳です。そして参加しているびっくりするほど多くの脇役(何も発言しない人たち)が発言をノートに黙々とメモしていきます。(ついでにいうと「人の話はちゃんと最後まで聞きなさい」と教育されてきている多くの日本人が黙って聞いている。)これが続いていき終了時間がきたら解散です。つまり全員が単に自分の考えを一方的に喋るだけで、誰にも合意や結論を導き出そうという意思がないのです。当然何も決まらないし、発言をもれなく書き込んだノートを読み返す人もいません。中国人の部下になぜこうなのかを聞いてみると、「(当時の)中国では会議は打ち合わせではなく偉い人の演説を聞く場です。学校でも家庭でも先生や親が一方的に喋り、子供はそれを黙って聞いているだけでした。そうやって育ってきているので議論をするなんてことはなく、あるとしたら自分が窮地に立たされる時だけで、自分はこう思うと話せば終わりです」ということでした。面子を大事にする人たちなので相手を非難することになる議論を避ける思いもあるのだと思います。
そして「実行しない」です。やっとのことで結論を導き出したのでそれを議事録に残そうと指示するのですが、出てくるのは自分がノートにメモした各人の発言の羅列。全く意味がありません。そこで議事録の書き方を指導してなんとか意味を成すものを作らせて配布するのですが、これを誰も実行しない。公式なビジネス契約ですら経営責任者が「こんなものはただの紙。守る必要はない」などと平気で宣っていた時代です。当然といえば当然なのですが、それでも決議事項を実行させるにはこの方法以外になく、議事録を示して「◯月◯日にみんなでこう決めたよね?」としつこくしつこく説得するとしぶしぶやるという状態でした。
そんな様子だったので、目的を明確にして議論を方向付けできる、実行に導ける日本人は重宝がられて、不思議な信頼を集めていました。たぶんどの方面の人からも味方のように思えたのだと思います。私たちの仕事はパートナー会社の技術支援だったのですが、いつの間にやら先方社内の調整役になり、その腕を買われて何度も支援要請を受けるようになっていました。「あれ?私の仕事はこういうことだっけ?」と考えることも度々ありました。少なくとも技術屋の仕事ではないことをたくさんやっていたと思います。
近年、中国の会社の会議室に「効率的な議論を」とか「win-winを」とか書いてある貼り紙を見たりすると、昔を思い出して微笑ましい気持ちになったりします。あっという間に経済大国になれたのにはこういう基礎部分の成長が貢献していると思います。
中国のおみやげといったら何でしょうか。現在は中国にモノが溢れていて中国らしいものが目立たなくなりました。日本人は中国的なものを好きな人が少ないですから選択が難しいです。無難なところではお茶でしょうか。中国ではなく経由する韓国の海苔とか博多の明太子などの方が喜ばれるという話も聞きます。あるいは奥様からは「モノはいらないからお金を持って帰って」とか。昔の中国には定番のおみやげがありました。偽物のブランド品、違法コピーのDVD、クスリです。
偽物のブランド品では高級時計が特に喜ばれました。おおっぴらではなく比較的目立たない地下街とかに小さな店があり、言えば奥から次から次へときらびやかな高級時計が出てきます。ロレックス、オメガ、タグホイヤー、パネライ、ブルガリ、ブライトリング、ゼニス等々、ほとんどのブランドがありました。私自身は保有しませんでしたが性能も悪くはなかったそうで、見た目そっくり、そして安いということで大人気でした。興味深かったのは仕事では中国語を全然話さない人が、こういう店では片言の中国語を駆使して値引き交渉をしていたことです。交渉というより「便宜点儿吧!」しか言わないし知らないので、一方的な値引き要求です。意外と結構な値引きを勝ち取れたりして面白かったです。相手が日本人ということできっと元々ぼったくり価格を提示していたのだと思います。女性ものならグッチやエルメスのバックです。いい年したおじさんが奥さんへのおみやげを安く買おうと頑張る姿は微笑ましいものでした。
そして違法コピーのDVDです。そんなのどこで撮ったの?どうやってコピーしたの?と聞きたくなるほど、世界中いろんな種類の映画、ドラマが大量に破格の値段で売っていました。日本の昔の名作映画やアダルトものなど、5元とか10元でみんな嬉しそうに買っていました。当時は中国で違法という概念がなかったのか薄かったのか、結構目立つ場所にある大きな店や屋台で堂々と売っていました。街外れの屋台に行くと品揃えは少ないけど更に安い。中国の映画館で新作映画を見て、その帰り道でふと屋台をみると、その作品が既にコピーDVDで販売されていてびっくりしたこともあります。
そしてクスリ、いわゆるバイアグラです。当時狼一号と呼ばれていたそのクスリを、中国通のおじさんから「〇〇通りの〇〇という店で売っているから買ってきて!」と頼まれて、まだ若かった私はおっかなびっくり買いに行ったことを思い出します。当時日本ではこのようなクスリは市販されていませんでしたが中国では普通に売っていましたので、買うのは容易でした。しかしそれにしても「狼一号」というネーミングには笑いました。
首尾よく頼まれたおみやげを買って「さあ帰国!という時に、多くの人はふと気が付きます。「これってひょっとして日本への持ち込みは禁止なのでは?」中国で当たり前に売っているので違法であることの意識が薄れてしまっているのです。ではどうするか?律儀に(?)シラっと持ち帰る人、その結果税関で見つかって没収される人、いろいろいましたが、多くの人は中国の会社に置いて帰っていました。そして後に出張した人がそれらの物品を見付けて「あの人がこんなものを」と笑う、それがお決まりのパターンでした。
私は中国以外でも仕事をしてきましたが、車の運転が最も無茶なのは中国でした。南米や東南アジアなどで「めちゃくちゃ飛ばす」とか「対向車が来ているのに追い越す」とかの「荒い」「危ない」無茶は多々ありましたが、中国の無茶というのはそういうのとは別の種類です。一言で言えば「スキがあればとりあえず頭を突っ込む」です。一般道路でも交差点でも車線は全然守らず、前が空いていたら頭を入れた者勝ちとばかりにどんどん突っ込みます。割り込みとか他車の侵入防ぐとかは普通のテクニックです。だからロータリーや交差点はいつも大渋滞。ちょっと待って通してやれば全員がスムースに流れるのに、自分がいつまでも行けないと思うのか、とにかく突っ込みます。対向車線にはみ出して抜けようとするのも当たり前、歩道に乗り上げて抜けようとするのも当たり前です。公園に侵入したり、その手があったか!と思わず感心するような抜け方をします。一人が抜けたらそこにみんなが殺到するので対向車線も歩道も塞がってまた膠着します。
そして事故。そんな運転をするのでそこら中でぶつけたり擦ったりします。日本だったら事故車両を交通の邪魔にならないところに移動して話をするのですが、中国では現場検証は警察の立会いのもとで現場でやらないといけないので、道の真ん中でストップ。これに堰き止められてまたもや大渋滞です。
言葉は悪いですが「この人たちはバカなんじゃないか?」と本気で思っていました。一旦譲れば流れるのに誰もが譲らないからみんなが動けず、誰もがクラクションをブーブー鳴らしながら膠着状態。腹が立つのを通り越して笑ってしまいます。どこの国にもこんなおバカな渋滞はありません。これがなくなった時、つまり譲れば自分も早く行けるのだと気付いた時に、中国は発展するのだろうと思っていました。
そんな中で唯一感心したのが誰もが怒らないことです。割り込みをされると日本であればムッとして怒鳴り合いになったりもしますが、中国では無表情、あるいはニコニコ話しながらでやり過ごします。中国人は心が広いんだなと思っていました。今考えると彼らにとっては当たり前で怒るようなことではないということだったのでしょうが。
今でも中国の運転は決して良いとは言えませんが、以前と比べると少しマシになりました。年配の人の運転は相変わらずですが若い人はスマートです。予測した通り、中国が発展したのは運転状況が改善したから、そしてまだまだ発展の余地はあると思っています。
因みにクラクションですが、日本では危険状態を警告するために鳴らしますが、中国では「私が通るから避けてよ」という意味で鳴らします。車もバイクも電動自転車も自転車もそうやっていちいち鳴らすのでうるさいことうるさいこと。自分が交通ルールを無視していても遠慮なく鳴らします。歩道でいきなり真後ろで電動自転車にクラクションを鳴らされたりすると思わず怒鳴りたくなります。(たまに怒鳴ります笑)通勤バスのクラクションが使われ過ぎて「ぷあア〜」みたいな弱々しい音になっていたことを思い出します。最近になってようやくクラクションを禁止する区域ができてきました。
話しているうちにだんだん論旨がすり替わってきて、諭しているつもりが知らぬ間に責められているようなことが度々ありました。相手に問題があるという話をしていたのに何やら枝葉の話に引っ張っていかれて知らぬ間に「あれ?こっち悪かったんだっけ?」みたいに流れていき、ぐるぐる回って訳が分からなくなる、「アンタが悪いのか私が悪いのか、ハッキリしてくれ!」状態に陥ってしまいます。これを私たちは「無間地獄」といって恐れていました。
例えば「失敗したのはあなたのせい」というすり替え。「①私たちではできないので支援して下さい→ ②(教えると)そんな難しいことは私たちにはできません→ ③失敗したのは支援できなかったあなたのせいです→ ④次回から責任を持って支援をして下さい→ ⑤①に戻る」
例えば「成功したのは私のおかげ」というすり替え。「①私たちではできないので支援して下さい→ ②私たちに分かるようにやってみせて下さい→ ③私たちの奮闘努力で成功しました→ ④元々支援は不要でした→ ⑤①に戻る」
こういう議論をしているうちにだんだん訳が分からなくなり、更に通訳さんも相手の会社の人なので「いい加減にあなたが悪いと素直に認めて下さい!」とか言い出して、流されてしまう人は「ごめんなさい」なんて謝ったりしていました。
しかしこれも続けていると慣れてきて適当にあしらうことができるようになってからは楽しめるようになりました。ポイントは「善かれと思って」をやらないことです。「できないので支援して下さい」と言われると「それは大変だね。あなたの仕事だから頑張ってね」と放置する→ 必死でやり始めます。やり方を教えて「そんな難しいことはできない」と言われると「そうか、じゃあ成功は難しいね。残念だね」と放置する→ なんとかできるようになろうと頑張ります。いよいよ失敗しそうになると涙目で本気でお願いしてくるので、その時に具体的に依頼してきたものだけを小出しに支援する。そうすると相手はなにやら大変感謝して「成功できたのはあなたのおかげです!」なんて両手で握手して乾杯を求めてきたりします。そして「次回もまた支援して下さい。谢谢合作!」とか言われると、「いえいえ、もうあなたたちに教えられることは何もないです。自分たちで頑張ってね」とちょっと褒めながらも放置する→ ますます支援を求めるようになる。だいたいこの方法でコントロールできるようになりました。
人はいくらでもいる中国、替えはいくらでもいます。失敗したら簡単にクビになってしまいますので相手も必死だったのだと思います。友人と「無間地獄を楽しめるようになったら中国ビジネスのプロだな」なんて話したりしていましたが、あっという間に中国人のビジネスモラルが格段に上がり、知らぬ間にそんな能力は不要になっていました。良いことなのですがスキルを身に付けた私としてはちょっと残念です。
これは昔の東北地方特有のものかもしれませんし、あるいは今でもどこでも同じなのかもしれませんが、印象深かったのでご紹介したいと思います。
以前台湾で結婚披露宴に参加させて頂いたことがあり、ものすごい大きな会場で親族や友人、友人の友人がたくさん集まって延々と飲み食いしながら楽しんでいました。中国東北地方で協力会社の副社長の娘さんの結婚披露宴に招いて頂いた時には、台湾での経験を思い出し、昼からでしたが夜にも延々と飲むのだろうなと思いました。服装は中国だからある程度カジュアルなものでいいのだろうなと思いながらも、やっぱり失礼があってはいけないということで日本人の同僚と相談して礼服っぽい格好で行くことにしました。
大きなホテルの会場に着くと中国人の招待客たちは予想通りくだけた服装、我々日本人グループだけ正装で浮いていましたが、これは想定の範囲内なのでOKということで会場入りしました。大きな会場で招待客は二百名ほどはいたのではないかと思います。やがてものすごい大音響と大きなスクリーンに映る二人のにこやかな映像を背景に、新郎新婦の入場です。二人の席には大量の花、招待客の席には美味しそうな食事と大量の酒、豪華な式の始まりです。市政府のお偉いさんとか会社のお偉いさんとかのスピーチが終わった後、会場全体で祝い声高らかに乾杯です。すごい熱気でした。日本であれば恩師や上司のスピーチ、友人による出し物や新郎新婦のお色直しと続いていくところですが、この宴では新郎新婦とご両親が各テーブルに挨拶にまわり始めました。彼らが行く先々でお祝いの言葉と共に乾杯です。この調子で全席回ってその後イベントが続くのだろうから、ものすごく長くなるだろうなと思われました。
ところが、テーブルでの乾杯が終わるとお客はそそくさと会場を出ていきます。アレ?と思い観察しているとどのテーブルも乾杯が終わったら退出してどうやらそのまま帰宅しているようです。やがて主賓たちが私たち日本人グループの席に来て乾杯。しかしその後どうすべきなのか分からず、他のお客に聞いたところ「主賓に挨拶さえしたら帰っても残ってもどちらでもいい」とのことでした。周囲は次々と帰って行きましたがやはり我々は最後までいた方が良いだろうと考え残っていました。一時間もしたら客は全員いなくなり、知らぬ間に主賓たちもいなくなり、残っているのは大量の食事とお酒、そして酔っ払っていい気持ちになった我々正装の日本人だけでした。片付けを始めたホテルの係員にちょっと迷惑そうに「ワイン持って帰っていいですよ」と言われ各自一本ずつワインを抱えてようやく退出したのを覚えています。日本人にとっては不思議な経験でした。
その後、同僚の結婚披露宴に招かれた際には、前回の経験を生かしカジュアルな服装で参加して、主賓にお祝いの言葉伝えて乾杯してから、スッと帰りました。
随分減ってきましたが以前は観光地や日本料理屋に行くと必ず愉快な日本語に遭遇していたものでした。文字でいえばひらがなカタカナの形がおかしいもの、ひらがなとカタカナが混じっているもの、音でいえば間違って聞き取った音をそのまま文字にして恥ずかしい内容になってしまっているもの、意味でいえば中国語を直訳して滑稽な内容になっているもの、これらを幾つ見つけるか友人と競争したりしていたものです。しかしそんな中にもおかしいながらも秀逸なものもありました。一番感心したのが西塘で見つけた案内地図の表記で、所在地を示す赤い矢印の上に英語では「You are here」、これは普通ですが、日本語では「私の居場所が分からない」と書いてありました。最初は「なんだこりゃ?」と笑ってしまいましたが、よくよく考えてみると確かに“居場所が分からない私がいる位置”を示しているわけで、間違いどころか極めて正確に状況と位置を表しているのだ!と気付き、感心してしまいました。考え過ぎでしょうか?
近年では日本語の有識者が増えてきましたし、観光地については政府主導で大学などに依頼して修正が進んでいます。今ではすっかり少なくなった愉快な日本語、見付けたら大喜びで写真を撮って友人と共有したりしています。しかし何故中国にはこんなに愉快な日本語が多いのかと考えると、間違っていても気にせず使う人が多いということもありますが、なんとか日本語を使って日本人と交流しようとしてくれている人が多いということもあると思います。そう考え付いた時から私には愉快な日本語が中国人のありのままの温かい心を伝えてくるように思えてきました。
中国人は日本人に比べて人と人との距離が近いです。私の経験では中国人は近過ぎて日本人は遠過ぎるので、日本人にとって中国人の距離の取り方は非常に近く、異性が平気で接近してきてビックリすることがあります。体臭や口臭なども気にする様子がなく間近で話をしますし、異性間でも同性間(女性)でも老若男女問わず仲睦まじく手を繋いで歩いています。カップルの公衆の場でのいちゃつき方も全く遠慮がないものです。これらは以前も今も変わらず、日本人と比較した場合の中国人の特徴だと思います。
以前は日本人には更にビックリするようなことが多々ありました。例えば一時期都会で流行ったスケスケファッション。黄色やピンクのレースで作られた妖精のような服装でしたが下着が透けて丸見えでした。日本でも見せ下着みたいなのが流行ったことがありましたがその比ではなく、全身透けて丸見えでした。その姿で会社にも来るので日本人を中心に「さすがにどうか?」という声が上がり、やんわりと禁止することになりました。
有名なニーハオトイレ。私が訪問し始めた頃はさすがに男女は分かれていましたが、溝の上に低い仕切りがあるだけのものがたくさんありました。前のおじさんの頑張る姿を見ながら・・日本人の私には無理でした。公衆トイレは有料で管理者がいました。当時システムも言葉も分からなかった私はお金を払わず、監視のおばちゃんが何やら叫んでいるのを無視して立ち去ったこともありました。ドアを閉めない、あるいは閉めても鍵をせずに用を足している人も多く、開けて入ったらおじさんがいてビックリしたことも度々あります。しかも洋式の便座は汚れ放題なので便座を取り外した上にしゃがんでいたりします。女性社員の報告によれば女子トイレも状況は同じでおばさんがドア、鍵を閉めずに便器の上にしゃがんでいたそうです。高速道路のサービスエリアにトイレ休憩に寄るとトイレがない、見廻すとそう遠くない草むらにたくさんの人がしゃがんでいました。日本の女性が一番驚き、そして中国を敬遠する理由がこのようなトイレ事情でした。出張帰路に韓国の仁川空港でトイレに行くと文明圏に戻ってきた感じでホッとしていたものでした。
近年の生活やマナーの向上により随分改善されてきました。唾を吐く人も減りましたし公衆トイレも政府主導ですっかりきれいになりました。クチャクチャ音を立てながら食べる人も減ってきました。私にとってはあとはガニ股で歩く女性が気になるくらいです。
街を歩いていると気を付けなければならないことがたくさんありました。人混みでガチガチ人にぶつかったり、食べ歩きしている人の串が服に触れてタレが付いてしまったり、車のタイヤで足を踏まれたり。どれも日本では大変なことですが住んでいると大抵のことには慣れて対処できるようになります。しかし中でも対処が難しかったのは「狙撃」と「ニオイ攻撃」でした。
まずは狙撃。空気の悪い中国、気持ちは分かるのですが、多くの人がそこら中で「ぺっ」と唾を吐きます。おじいさんから若い女性まで遠慮なくやります。気を付けていないと命中させられてしまいます。最初の頃は「ぺっ」とやられたらサッと避けていたのですが、次第に予兆があることに気が付きました。「ぺっ」の前の「かあ〜」です。どこからか「かあ~」と聞こえてきたら素早く周囲を見回し、狙撃手を見付けて避難です。コロンビアで仕事をしていた時は銃声らしき音がするとサッと伏せる訓練ができていた私ですが、中国では「かあ〜」でサッと避難できるようになりました。しかし問題は予兆がない狙撃、片鼻を押えて「ふんっ!」とやります。これには対策の取りようがなく至近距離でやられたらほぼアウトでした。不幸にも命中させられて「あああ〜!」と言うと狙撃手は「没问题」と。どういう意味の没问题だったのか今でも分かりませんが、せめて「吗?」を付けて欲しかったです。
他に困ったのがニオイ攻撃。いい天気の日に完全に気を許してのんびり歩いていると、突然生ゴミが腐ったような臭いに襲われて仰け反ってしまいます。「くさ〜い」とかそんなレベルではなく、強烈な刺激臭に目がチカチカするほどでした。これも予知するのは不可能で、ある区画に入ったら突然鼻がひん曲がる刺激臭に襲われます。いい気分を一瞬で台無しにしてくれます。「くさいかもしれない」歩行をするしか予防策はなく、気を許せません。
他にも、突然上から水が落ちてきたり。アパートの上の部屋で脱水をしていない洗濯物を通りの真上に干したり、エアコンの室外機が通りの上にあって水がボタボタ落ちてきたり。これも命中させられるといい気分を一瞬で台無しにしてくれていました。
近年かなり改善が進んだような気がしますが、以前の状態に慣れている私は今でも警戒心いっぱいで街を歩いています。
以前は床がゴミだらけの店が美味しい店だとされていました。人気がある店はお客がたくさん入ってたくさん食べてゴミを床に捨てるからということです。海鮮であれば剥いたエビやカニの殻、貝殻、魚の骨などを床にポイポイ捨てる、殺菌のためだとかじる生ニンニクのカスもペッペと床に吐き捨てる、ついでにタバコの吸い殻もポイポイ捨てるといった具合です。酔っ払ってビールの瓶をひっくり返す人もたくさんいて、床はゴミと液体でヌルヌル、すごい臭いになっていたものでした。酔っ払いがトイレに行こうとするとズルッと滑って転んで殻で手を切ったりしていました。
煙台など海沿いの都市は海鮮料理屋が多い(というかどこに行っても海鮮ばかり)で各店がそういう状態だったので、街中が海鮮とニンニクの臭いでいっぱいだったように思います。
もちろん肉料理でも同じ、羊肉の塊を食べれば骨を床にポイポイ、串焼きを食べれば串を床にポイポイしていました。日本の習慣で育った日本人は最初は眉をひそめますが、次第にゴミを捨てる手間がないことに心地良さを覚えて、遠慮なくポイポイし始めます。
近年公衆衛生の意識が高まってきたことで、都市部ではそういう店はほとんど見なくなりました。良いことなのでしょうが、以前のあの雑然とした活気ある風景が見られなくなってきたのは少々寂しいです。
因みに、海鮮料理の殺菌用の生ニンニクですが、私にはあまり効果がなく、十中八九お腹を壊していました。無菌状態で育ってきた日本人の抵抗力の弱さですね。
日中で喧嘩ばかりしていると次第に追い詰められていくのは通訳さんです。良い人であればあるほど苦労します。彼らは日方中方両方の言い分を聞いてコミュニケーションを成立させようと頑張ってくれるのですが、ダメなものはダメ。結局喧嘩になってしまい心を痛めることになってしまいます。ある日親しい通訳さんが来て「私はもうあなたの仕事の通訳をしたくないです。日中両方からお前が悪いみたいに言われて辛いです。」ということでした。反省した私は「なるべく仲良くします。間を取り持つようなことはしなくていいから互いに言ったことだけを淡々と訳して下さい。」とお願いしました。それ以降その通訳さんは言ったことだけを淡々と訳すようになったのですが、罵り言葉までそのまま訳すので互いに感情的になって更に激しく喧嘩するようになってしまいました。ただ、通訳さんは心の平穏を取り戻したようでした。
中国人のリーダークラスと会議をしている際に、都合が悪くなってくると電話がかかってきて「ウェイ?」と返事をしながら会議室から出て行き、そのまま帰ってきません。これは頻繁にありました。もちろんいつまで待っても戻ってきません。リーダーがいなくなったら残ったメンバーでは話はできず、そのうちに一人二人と何も言わずに退出していき、残っているのは生真面目な日本人だけ、という場面がよくありました。
あまりにタイミングが良いことが多かったので、ひょっとしたらその場から逃れるために誰かに電話をかけさせていたのか、あるいはかかってきたふりをしていたのかもしれません。
他にも「上司に呼ばれた」とか「政府の要人が急にやってきた」とか様々な理由で、「後はこの人(部下)と話してくれ」と言い残して出て行きます。そしてたいていの場合は指名された部下は「権限がないから決められない。話の内容を上司に伝えておく」と言って、こちらに喋らせるだけ喋らせておいて、後日確認すると案の定何も伝わっていない、そんなことの繰り返しでした。
真相は今でも分かりませんが手玉に取られている感がアリアリでした。そしてうすうす策略だと分かっていても他になすすべもないという、なんとももどかしい状態でした。
まずはお昼寝です。もちろん日本の会社員でも勤務中にうつらうつらします。ここで言いたいのは当時の私が一緒に仕事をしていた会社の中国人たちは「遠慮なく」寝ていたということです。机に思いっ切り突っ伏してグーグー寝ていました。よく見ると耳栓やアイパットをしている人もいました。やることがないのだから寝ようが何しようが勝手でしょ?という感覚でしょうか、空き時間に自分の仕事を整理したり改善案を考えたり、そういうことは全く考えないようでした。
次に怠慢、監視の目がないと仕事をしない。製造会社の検査ラインを確認した時のこと、目視検査のステーションに行ってみると人がいない。仕方がないので腕組みをして立っていると申し訳なさそうな顔をした検査員が一人二人とやってくる。30分くらい立っていると八名ほどのフルメンバーが揃って製品をチェックするようになる。で、ステーションを離れて一時間くらいして戻ってみるとまた人がいない。腕組みして立っていると一人二人とやってくる・・この繰り返しでした。
また、検査員たちの理解度を確認しようとヒアリングを行った時のこと、私:「あなたの仕事は何ですか?」検査員:「ここに書いてあります(作業手順書を見せる)」私:「やってみて下さい」検査員:「・・・(できない)」私:「できないということは仕事をやっていないということですね?」検査員:「いえやっています。ここに書いてあります(作業手順書を見せる)」私:「???」全く理解できない受け答えでした。後から聞くと工場作業者は地方の農村からきた人がほとんどで、そのうち半分は字が読めない人でした。現場の責任者は作業手順書を渡して「この通りにやれ」という指示だけをして生産・検査ラインで働かせていました。字が読めないなんて知ったことではない。手順書を読めと指示したことで責任者の仕事は終わりです。
そんな状態ではいい製品ができる筈がありません。管理者に改善を促そうと事務所に行くとマネージャーは夜の宴会に備えて既に帰宅していました。無間地獄とはこのことかと痛感しました。
仕事では日本人は協働当初は先生として尊重されていましたが、やがて中国人も実力を付けてきて、考え方の違いから対立するようになりました。当時私が相手にしていたのは何事にも率直で感情の起伏が激しい東北人です。毎日机を叩いて怒鳴り合うことになるので、出勤前にはテンションを上げて喧嘩モードで会社入りしていたものです。
日本人に喧嘩をふっかけて恫喝して要求を通すようなことが度々ありました。机をぶっ叩いて怒鳴って出て行くことは日常茶飯事。それにしてもよくやるなあと不思議に思っていたのですが、ある日日本人の同僚が見つけた彼らの業務マニュアル、そこにはその戦略が明文化されていました。「日本人が言うことを聞かなかったら怒鳴って机叩いて出て行け。そうすれば彼らは本社と相談して譲歩してくる。」という内容でした。まさにその通りです。敵(?)ながら日本人をよく観察してうまい戦略を立てたものだと妙に感心したものです。相手の恫喝が戦略だと分かってからは私も遠慮なく怒鳴り返すようにしました。
そんなことをする一方、人情味が厚く誠実なのが当時の東北人、その夜の宴会に「あの時は興奮してすみませんでした。」などと謝ってくる人もいました。もちろん許して気持ちよく乾杯です。そして翌日はもちろんまた怒鳴り合いです。
昼間の仕事は喧嘩ばかりで全く進まないのに夜は一起加油!谢谢合作!で毎晩宴会。当時は普通の日本人だった(?)私はストレス一杯でしたが、次第に馴染んでいきました。慣れとは恐いものです。時々帰国する目的は休暇や出張ではなく、日本人としての常識を取り戻すことでした。
まだまだ改善されたといえるレベルではないですが深刻な大気汚染に対して様々な取り組みが進んでいます。北京オリンピックの後くらいから問題が指摘され始めてPM2.5の状況が広く知らされるようになりましたが、特に酷かった2013年頃には500とか600という信じられない数値に達したこともあります。これは日本の健康基準を15倍以上も上回るひどい値です。こうなると昼間でも近くのビルが霞んで見えませんし視界が悪く危ないので高速道路は閉鎖になります。児童は外出禁止、学校は休校になります。ホテルに宿泊していても部屋の中にまでモヤモヤが侵入して白くなるような逃げ場のない状態でした。そんな中でも平気な(というかよく分かっていない)中国人が大半で、マスクもせずに平然と外を歩いたりしていました。3M社などからPM2.5対策用のマスクが販売されましたが、そういうのを着用しているのは外国人だけでした。中国人の友人にマスクをした方がいいのでは?と勧めると「中国人は愛国心が強いから自分の肺で中国の空気を浄化してるのです」と答えられたのが印象に残っています。その後徐々に健康意識が高まって、大気汚染が随分改善されてきた近年になってようやくマスクを着用する人が増えてきました。個人的には手遅れだったのでは?と思っています。多くの人が汚染がひどい時期を無策で過ごしたので後に健康被害が続出しないか心配しています。
そういう時期を経験した者にとっては中国で最近ちょくちょく見られる青空には感動します。思わず外出して散歩したくなります。しかしそれでも日本に帰国した際に外を見るとやっぱり日本の方が格段にキレイで、視界が良く遠くまで見渡せるので急に目が良くなったような気がします。
政府主導で改善が進められて環境意識も高まってきましたので、今後さらに改善が進むと思います。
現在は贅沢や浪費を抑えることを政府が指導してきたこともあって、派手な宴会や食事会などはずいぶん減ってきました。しかし元々は接待する際にはお客が食べ切れないほどの量を振る舞うのが礼儀とされてきた中国です。以前の宴会や食事会ではものすごい量の食事と酒が振舞われていました。大皿に山盛りになった山海の珍味がどんどん出てきます。そして白酒とケースで準備された何十本ものビール、壮観でした。一方でもったいない精神で育ってきた日本人、食事は残さず食べなさいと両親から教育されています。お客が食べきれない量を出そうとする中国人、全て食べようとする日本人、この両者が出会うと互いの善意による壮絶な戦いが繰り広げられます。
大量の飲食物を供してご満悦の中国人、一方それを見て喜びながらも内心冷や汗をかく日本人、頑張ってなんとか完食します。すると焦る中国人、これでもか!とばかりに出し続ける中国人、ホストとしてのメンツの問題なので必死です。それを見てげんなりしながらもまた必死で食べる日本人。最後は胃袋の限界にきた日本人が健闘虚しく敗退です。中国人はご満悦。
私は中国人の友人に「日本人ってよく食べますよね」と言われたことがあるのですが、普通の状態なら明らかに中国人の方がよく食べます。きっとこういった壮絶なバトルを経験したのだろうなと可笑しくなりました。日本人の友人からは「あんなにたくさん出されたら食べ切れないよね」と言われるので「残して良いのですよ。残した方が先方は満足するのですよ」と教えるようにしていました。
かつてはこれができる人が中国通だと言われていた、と聞くと意味が分からない人もいることでしょう。以前は信号も横断歩道もない大通りを中国人たちは臆することなくスタスタと渡っていました。日本人的感覚では止まって待つ、車が迫ってきて危ない状況でもスキがあれば平気で渡ります。車線が複数ある大きな道路では道の真ん中で車が通り過ぎるのをやり過ごしたりします。車の方も心得たもので人がいると適当に減速したり逆に赤信号でも誰もいなかったら平気で進みます。最初の頃は「こんなことをしていてよく今まで事故に遭わず生きてこれたなあ」と感心していました。(でもおばちゃんが車にはねられてひっくり返って喚いている場面に遭遇したりもしていました)
日本人は最初はおっかなびっくり中国人を盾にして渡りますが、慣れてくると自分でもチャレンジし始めます。コツはただ一つ「臆せず躊躇なく淡々と」渡ることです。車が迫って来て止まったり急に走ったりすると車の方も通常と違う動きに戸惑って返って危ない状態になったりします。一定のペースで淡々と渡ります。車が迫って来たら走り出したりせず目力で運転手を制します。これが出来るのが中国通と言われ尊敬を集めていた、ということです。
私はこれが中国人並みにできる技能を身に付けていたのですが、困るのが日本に戻った時です。中国にいる感覚で何の気なしに道を横切って危険な目に遭ったり、小学生たちに「あれっ?」という目で見られたりしました。教育に良くなかったと反省しています。
また、地域差もありました。大連に街中に行った時のこと、私としては普通の感覚で道をブラブラ横切っていると地元の中国人たちに「あれっ?」という目で見られました。「どこの田舎者だろう」と思われたことでしょう。
そして近年では信号や横断歩道が整備され、交通ルールの遵守が呼び掛けられるようになり、都会では以前のように横断する人はほとんどいなくなりました。私が身を危険に晒して苦労して習得した技能は知らぬ間に不要になってしまいました。社会としてはもちろん良いことなのですが、個人的にはとても残念な思いです。今でもたまにこの技能を披露して自慢したい衝動に駆られたりします。
以前の中国を知る人は現在の中国人が列に並んでる姿を見るとビックリすると思います。若い人を中心に整然と並びます。これは以前では考えられないことでした。
私の初めての中国経験は出張で海南島だったのですが帰国時の空港での出来事は今でも忘れられません。空港のチェックインカウンターに行ったのですがまず並んでいるのかどうか分からない密集状態でした。よく見ているうちに列らしきものを見付けたのでそこに並んでいました。すると次から次へ人が割り込んできます。当時は中国語が全く分からず、何やら前の人に話しかけながら入っていくので知り合いかな?と思ってされるがままにしていました。でもどんどん入ってくる。これは単なる割り込みだ!と気付いた時には既に搭乗時間の直前になっていて、慌てて人混みにダイブして怒鳴りながらチェックインしました。
バス乗り場でも同じ、全員が密集してダンゴ状態になっていて、バスが来たら全員が入り口に殺到します。満員になっても押し入ろうとするので、運転手が側に人がいるのにドアを閉めて走り出そうとします。電車でも同じ、並びもせず中の人が出る前に押し入ろうとするので降りられない人乗れない人の怒号が飛び交います。車の運転も同じ、前に隙ができると我先に頭を突っ込むので全員が身動きが取れなくなり大渋滞。買い物でも同じ、我先に殺到して何やら叫びながら商品を取って買っていくので言葉ができない外国人には太刀打ちできません。イライラして「並べこのバカ!」と日本語で怒鳴り付けたりしていました。もちろん誰も気にする人などいません。
こういう場面に遭遇するたびに笑いや怒りを通り越して「この人たちはいったい何を考えているのだろう?」と思っていました。「運転手がルールを守って整然と運転できるようになったら中国は発展するだろう」と思っていました。
しかし考えてみると、そう遠くない過去の中国は並んでいても自分の番は永遠に来ない社会だったのです。自分のものはどんなことでもして自分で勝ち取らないと死んでしまいます。こういう時代を経験した人は我先に殺到するというのが当たり前の習慣になっていたのです。そう考えると、今でも年配の田舎の人は割り込んだりしますが許す気になれます。今では並んだらちゃんと自分の番が来る社会になりましたので、これからマナーはどんどん向上していくことでしょう。
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