南京に住んでいて鄭和関係の遺跡や遺物に触れることが多かったのですが、鄭和は世界史で有名なバスコ=ダ=ガマやコロンブスより評価されても良いのでは?と思われる功績を残しています。南京には鄭和の艦隊の船のドックだった長江に面した宝船公園、鄭和の墓、鄭和公園などがあり、偉人として祀られています。
鄭和は明の永楽帝が朝貢貿易拡大のために1405〜30年まで東南アジアからインド洋に派遣した大艦隊を指揮した人物で、インド、アラビア、アフリカ東岸まで7回に及ぶ大遠征を行いました。鄭和は元々馬和と名乗る雲南のイスラム教徒だったそうですが明が雲南を征服したときに捕虜となって宦官にされたそうです。その後永楽帝の信人を得て鄭の姓を与えられて大遠征の指揮官に抜擢されたそうです。各航海とも2万数千人の乗組員をもつ大艦隊でマラッカ王国、南インドのカリカット、ホルムズを経て東アフリカにまで及んでいます。鄭和が第1回航海でカリカットに到達したのは、ポルトガルのバスコ=ダ=ガマの船団が到達した1498年より90年以上も前で、バスコ=ダ=ガマの艦隊はわずか3隻、乗組員60名であったこととくらべても鄭和の航海がいかに大規模でかが分かります。東アフリカのマリンディの商人は鄭和艦隊について中国へ使節を派遣することにし、おみやげとして生きたキリンを連れて行気、はじめてキリンを見た中国人と永楽帝は大いに驚いたそうです。それ以降もホルムズからライオンとヒョウ、アラブ馬、モガディシュからシマウマ、ブラワからはラクダとダチョウなどの珍獣が中国にもたらされたそうです。
鄭和の遠征は民間貿易ではなく朝貢貿易の活性化でしたがその役割は十分に果たせたものと思われます。明はやがてモンゴルの台頭への対策に注力せざるを得なくなり、南海遠征は中止されましたが、訪問諸国との交流が進み明の威信を示すことができました。その後のポルトガルやスペインの遠征が征服や植民地化を進めることであったのとは違って比較的友好的なアプローチだったと言えます。
宝船公園には鄭和が訪ねた国々での出来事が遊歩道のパネルで掲載されています。歴史好きの私にとってはそれを一つ一つ読んでいくのはとても楽しいことでした。