世界四大文明の発祥の地、古代先進国だった中国へ、日本人は古くから学びに行っていました。最古の留学は遣隋使です。遣隋使は600年に始まり計4回行なわれました。1回目と2回目の目的は朝鮮半島への遠征のために隋を味方につけようとする政治交流が目的でした。2回目の607年には小野妹子が派遣されましたが、隋の冊封体制を受け入れなかった為もの別れに終わりました。
608年の3回目の遣隋使で再度小野妹子が大和朝廷の返書を持って行ったのですが、何人かの留学生も同行しました。これが最初の日本人の中国留学だと思われます。彼らは20年以上も中国で学問や仏教を学び、隋の滅亡と唐の建国を見届けて帰国しました。帰国して学問の振興や政治改革に貢献したそうです。特に唐の精度を真似た律令国家を作り上げるにあたって、彼らが得た知識は重要な役割を果たしたそうです。
隋が滅亡して唐の時代になると遣唐使として派遣が続けられました。630年から894年まで、約250年続きました。唐の進んだ文化や政治の制度、当時日本で栄えていた仏教を唐で学び、それを日本に持ち帰って活かすことが目的でした。阿倍仲麻呂や空海、最澄、山上憶良などが有名です。阿倍仲麻呂は唐で官僚を育成するための「太学」に入学し、国家公務員試験の科挙の進士科(最難関)に20代半ばで合格した超優秀な人だったそうです。その後玄宗皇帝の信任を得たが故に帰国が許されず、許されても航海事故で帰国できず、唐で官僚として命を全うしました。また、鑑真など、唐の僧侶が日本に仏教位を広めるために渡航してくることもありました。遣唐使は唐の衰えと共に菅原道真の進言により廃止されました。
その後は日宋貿易や明国との勘合貿易へと続きますが、政治的な交流と貿易が主な目的だったようで、記録が少ないことから中国から何かを学ぼうという意図は少なかったのではないかと推測されます。その後は日本が室町の乱世から戦国時代になり、その後の江戸幕府が鎖国政策をとったため、明国・清国との公式な交流はほとんどありませんでした。その後明治維新で近代化のモデルを西洋に求めたため、留学生は欧米に派遣されることになり、中国への派遣はありませんでした。
中国への留学が復活したのは近代です。中国の改革開放の成果が出て経済発展を始めた1980年代後半頃から日本にも中国に注目する人が増え、国の政策ではなく自費で留学する人が出てきました。日本人の留学先はアメリカ、イギリス、オーストラリア、カナダの英語圏が多いですが中国が年々増えてきています。中国に留学した学生を採用したいとする企業も年々増えています。今後中国は国際社会で更にプレゼンスを高めるでしょうから、中国を目指す日本人もますます増えていくと思われます。
中国から日本へ、日本から中国への留学の変遷をみてきて分かったのは、日中対立と各々の国の混乱があった時期以外は、教え教えられの歴史が繰り返されていることです。大きく見ればまずは日本が中国から多くのことを学び、近代化は中国が日本に学び、現在は相互に学び合っている状態だと思います。引き続き互いに刺激し高め合う関係を構築していきたいものだと思います。