中国人の日本への留学は清朝末期の1896年から始まりました。日清戦争に負けた清朝は近代化の必要性を痛感し、西洋のモデルを学ぼうと考えました。当時は日本が先んじて西洋モデルを導入していたので、近くてコストがかからない、言語が似ていて理解が容易な日本への派遣を決めたそうです。最初に派遣されたのは13名、嘉納治五郎の塾で学び、早稲田の政治科を卒業した人もいました。地方政府からの派遣も始まり、その多くは軍事を学んだそうです。
1900年の義和団事件で八カ国連合軍に首都北京を占領され巨額の賠償金を取られてから、清朝政府は富国強兵を目指して新政を開始しました。そのために大量の知識人が必要とされ、1903年から大規模な日本留学が実施されました。官費生だけでなく自費生も多く、そして政治的関心が高く法制や教育を学ぶ人が多かったそうです。欧米の留学生から科学者が多く出たのに対して、日本留学生からは政治家や軍人、文学者や芸術家が多く出ました。前者では周恩来、陳独秀、蒋介石ら、後者では魯迅などが知られています。清朝政府が清国を強化するために派遣した留学生たちが国を変える人材に育ってしまったことは、歴史の避けられない流れだったのでしょう。ただ、あまりに多くの学生が送り込まれたために教育が不十分だったケースもあったそうです。
中華民国成立後も日本への留学は続き、1914年頃から1930年代まで多くの留学生が日本に向かったそうです。その時期は日本軍の中国侵略により日中関係が徐々に悪くなり続けた時期なので、抗日救国のためにまず日本なるものを見極めようという意味あいが強かったと分析されています。数量的には清朝末期の方が多いですが質的に大きく向上して、東京帝大や京都帝大などの名門大学を卒業する人が増加したそうです。そして1937年の盧溝橋事件をきっかけに中日全面戦争が始まって、日本への留学は中止されました。
再開したのは1973年、中華人民共和国との間で中日国交回復の翌年です。僅か5名でしたが和光大学の聴講生として日本語や日本史を学びました。そして本格的な再開は改革開放後の1979年からで、国費による158名の派遣でした。文化大革命の影響で学校教育期間が短縮されていたのでそれを補うために長春の東北師範大学で赴日留学予備校を設置し、予備教育を施した上で日本に派遣されていました。大学院への派遣が進むと大連外国語学院でも予備教育が行われました。日本から派遣された教員が教育にあたっていたそうです。
その後時を経て、現在では自費留学生が増えました。彼らの進路は全て個人の意思によって決められるので、以前は日本で職を得たり結婚したりして日本に留まったり、第三国に向かう人も多かったですが、中国が経済発展するに伴って帰国する人が増えてきたそうです。留まるにしても帰国するにしても、留学生が中国と日本の相互理解に果たす役割は大きく、友好関係の構築に向けた重要な人材です。